バートランド・ラッセルはトリニティ・カレッジに入学し様々な交友を持ち、さらにはその後ドイツに訪問してマルクス主義に影響を受けています。
■➀ケンブリッジ大学での交友■
バートランド・ラッセル(1872-1970)は1890年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学しました。ケンブリッジ大学は31のカレッジ制を採り、一番学生人数の面でもノーベル賞受賞者数でも大きいコレッジはトリニティ・カレッジになります。またトリニティ・カレッジはベーコンやニュートンなどを輩出し、数学や自然科学などが進んだ学校で後にウィトゲンシュタインもトリニティ・カレッジで教えるラッセルもとを訪ねます。
トリニティ・カレッジではジョージ・エドワード・ムーア(1873-1958)と知り合いになっています。その関係もありアルフレット・ノース・ホワイトヘッドの影響を受けたりもして、ケンブリッジ使徒会(Apostles)に参加したりします。
ホワイトヘッドは10年も早くトリニティ・カレッジに入学していて、すでにフェロー(イギリスの大学の特別研究員で、多くは教授や講師を兼ねる)となっており、奨学生試験のときにラッセルの書いた答案にひどく感心して、その才能を認めたといわれています。
またマクタガードとも交友をもっていて、マクタガードはすでに学生クラブ長で、フェローになるところだった上、ヘーベル哲学の信奉者であったため、ラッセルも哲学に関心を持ち始めたと言われています。
■②ドイツ訪問とマルクス主義■
ラッセルはフェロー資格論文では「幾何学の基礎」を書いており、討議としては「使徒会(アポストルズ)」「協会(ソサエティ)」に参加しています。
1894年には結婚し、1895年には二度目のドイツを訪問しています。
ドイツにおいてはドイツの社会主義運動を研究しました。
抽象的な数学の研究と、具体的な政治学や経済学の研究とを、どのようにして総合させるかということで頭の中はいっぱいであったと言われています。
このドイツの訪問でマルクス主義と出会い、マルクス『資本論』全三巻を読破したと言われています。
また当時のドイツがあらゆる形の抑圧や悪政が蔓延っていることを発見したとも言わています(帰国後、フェビアン協会でラッセルが最初にした講演はこの内容になっています)。当時のドイツはモルトケとビスマルクを両輪として活躍した時代も終わって、若き皇帝ヴェルヘルム2世が即位していた時代でした。
ヴェルヘルム2世は即位したときはビスマルクの補佐を受けていましたが、社会主義運動の対処の方法で対立して結果ビスマルクが失脚する結果となっていました。具体的には1889年に起こった鉱山でのストライキの発生を受けて、ビスマルクは社会主義の鎮圧を考えていたのに対して皇帝は労働者の保護法を準備したりしました(因みにこのヴェルヘルム2世のもとでシュリーフェン・プランが策定され、小モルトケが参謀長に任命され第一次世界大戦を向かています)。
1896年には『ドイツ社会民主主義』を書き、マルクスが現代社会を科学的に分析し、自由経済から独占への資本の集中化と、国家が生産手段の全体を包括的に所有する社会主義への必然性を明らかにしたことを高く評価したようです。
※参考文献…Wikipedia英語版「Bertrand Russell」、Wikipedia「ケンブリッジ大学」、『ラッセル』金子光男、清水書院、1968.4.10